大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

徳島地方裁判所 昭和42年(ワ)26号 判決

原告 国

訴訟代理人 片山邦宏 外六名

被告 土橋清信 外三名

主文

一、別紙図面(一)のNo. 0から順次追番号をもつてNo. 97に至る各地点、No. 0、以上の各地点を順次結んだ線によつて囲まれた土地(但し、現況徳島大学工学部グランドすなわち徳島市北常三島町三丁目四一番の一学校敷地三七、九二九歩、同番の二同じく一六歩の二筆の周辺の堤敷実測一、一六六坪九四で、うち(一)No. 0ないしNo. 6、No. 72、No. 72ないしNo. 97、No. 97、No. 0の各点を順次結んだ土地とNo. 44ないしNo. 70、No. 70、No. 44、の各点を結んだ土地その実測六〇〇坪三六は番外地であり、(二)その余の部分すなわちNo. 6ないしNo. 44、No. 44、No. 70、No. 70ないしNo. 72、No. 72、No. 6の各点を順次結んだ土地その実測五六六坪五八は無番地である。)につき、原告が所有権を有することを確認する。

二、訴訟費用は被告らの負担とする。

事実

第一、申立て

原告は主文同旨の判決を求め、被告らは「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二、主張

(原告の請求原因)

一、(一) 請求趣旨記載の堤敷(本件土地)実測一、一六六坪九四のうち、(イ)番外地部分実測六〇〇坪三六は原告国(所管文部省)が昭和一五年三月三〇日訴外徳島製函株式会社(代表者片山頼三)から契約書の表示上は「徳島市常三島町字常三島番外二番堤敷一反八畝一四歩」として買受け所有権を取得した堤敷の一部であり(なお、右の表示により買受けた堤敷のその余の部分は別紙図面(一)の本件番外地の東側にコの字型に接続して存在する堤敷部分であつた。換言すると、原告は右売買により現在の徳島大学工学部グランド、正確には徳島市北常三島町三丁目四一番の一学校敷地三七、九二九歩、同番の二同じく一六歩の二筆の周囲を囲む堤敷部分全部の所有権を取得した)、(ロ)無番地部分実測五六六坪五八は古くから民有の確証なく、民法施行の前後を通じ第三種官有地(後述)として原告国が当初からその所有権を有する土地である。

(二) 仮りに右主張が認められないとしても、原告は本件土地のうち少くとも右番外地部分の所有権を時効により取得したから昭和四五年一一月二〇日の本件口頭弁論期日にこれを援用した。すなわち、原告は昭和一五年三月三〇日右番外地堤敷の内測に存する前記徳島大学グランド敷地を、当時の所有者であつた前記徳島製函株式会社、林清造らから買受け、または寄付を受け(当時の地目は田、水路、宅地、堤敷等)、グランドに造成したが、そのさい本件番外地も当然右グランドの外周として所有の意思をもつて平穏公然に利用占有してきた。よつて原告は占有開始後二〇年になる昭和三五年四月一日をもつて本件番外地の所有権を時効取得した。

もつとも、被告らは、本件番外地は別紙目録(一)の土地の一部であり、右時効完成後に被告広瀬または被告会社が所有権取得登記をしたから、原告は右所有権を対抗できない旨主張するかもしれないが、本件土地が別紙目録(一)で表示される土地ではないこと、及び仮りに然らずとしても右被告らの登記自体が無効であること後述のとおりであるから、右主張は当らない。

(三) しかるに、被告らは、本件土地は別紙目録(一)記載の堤五筆すなわち、北常三島町三丁目四二番の一ないし五(公簿合計二〇〇坪)に該当するものであり、これらはすべて被告会社が所有する(被告会社の主張)か、または被告広瀬が所有する(その余の被告らの主張)と主張し、現にこれを宅地または養魚池に造成しようとして、原告の本件土地所有権を全面的に争つている。

(四) よつて、原告は被告らとの関係で本件土地につき原告が所有権を有することの確認を求めるため本訴に及んだ。

二、原告の主張を敷衍すると次のとおりである。

(一) 便宜、被告らの主張が誤りである点について先に説明する。

(イ) まず、別紙目録(一)の土地五筆(元徳島市常三島町字常三島番外五であつたのを昭和一七年地番改正により同市北常三島町三丁目四二番となり、これが昭和四〇年六月一一日分筆されて現在の四二番の一ないし五となつたもの)の登記簿上の現所有者名義は被告会社、前所有者名義は被告広瀬となつているところ、これを徳島市役所備付土地課税台帳付属地図(昭和一〇年改調、甲第七号証)及び徳島地方法務局備付図面(甲第八号証)に照合してみると、本件土地に該当する現地部分にあたかも、前者では「番外五」と後者では「四二番の一ないし五」とそれぞれ記入表示がなされており、一見本件土地は被告会社の所有か、または、もしこれが実体に符合せぬ登記であるというのであればその前者である被告広瀬の所有であるように思われ、以上の点が被告らの主張の根幹をなしている。

しかし、右両図面の記載は明らかに誤りである。別紙目録(一)の堤(すなわち番外五の土地)の現地の位置は本件土地ではなく、そのほぼ南方にかけ離れて存する大岡川の西淵にして後記旧字常三島二〇三番、二〇四番の両土地に接する堤敷すなわち別紙図面(二)の(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(イ)の各点を結んだ部分(以下第二現場という)にほかならない。すなわち、(イ)徳島市附近では従来から河川敷の一部を埋めて新田を造成した場合は、新田所有者が護岸のため自ら堤敷を築造し、番外地と称してきたが、その所有権は必らず新田と運命をともにし、番外地を名乗る堤敷だけが独立して取引の対象となることはなかつた。(ロ)そこで、徳島市役所備付の土地課税台帳によつて本件番外五の所有権移転過程を調査し、これと類似の移転過程を示す他の土地はないか調べてみると、それは、まさに第二現場に接する新田である旧徳島県名東郡常三島村字常三島二〇三番及び二〇四番の両土地(現徳島市南常三島町三丁目三六番地の一、二、三の三筆)のそれと符合し(別紙目録(二)参照)、他にこのように符合する土地は見当らない。(ハ)しかも、番外五の台帳上の面積が六畝二二歩(二〇二坪、但し、現在は別紙目録(一)の五筆を合計すると二〇〇坪の計算になる)であるのに対し、右二〇三、二〇四番に接する第二現場の堤敷の実測は二一二坪八四であり極めて近似し、他方本件土地の実測一、一六六坪九四とは遠く離れている。なお、市役所備付図面によると第二現場に該当する部分の一部に「番外一の二」の表示があるが、番外一は昭和三年九月一四日既に旧字常島三島二〇五番地に合筆されており、第二現場の堤敷とは別物である。第二現場は実は今までのところ未登記無番地として扱われていたのである。(ニ)第二現場すなわち番外五の旧所有者蛭子製材株式会社はかつて自社所有の二〇三番地に製材工場を設置するとともに右第二現場の堤敷を木材搬出入のため支配していた。以上のとおりであるから、本件土地の現地に番外五または別紙目録(一)の五筆の番地を記入した前記両公図は誤りというほかない。

(ロ) のみならず、被告会社及び被告広瀬は第二現場の敷堤(すなわち、原告が別紙目録(一)の五筆すなわち旧番外五と主張する土地)すらかつてこれを有効に所有したことはないのである。

すなわち、右堤敷については昭和三五年三月三一日の改正不動産登記法附則二条一項後段にいう未登記土地として土地台帳に基き登記簿をおこし表題部を作成したが、それには「徳島市北常三島町三丁目四二番堤塘六畝二二歩、所有者蛭子製材株式会社」と記載されており、これは台帳上大正八年二月七日に所有権を取得したという蛭子製材株式会社(別紙目録(ニ)参照。旧会社。)のことである。ところが、右会社は実は大正九年三月一四日解散しており、右登記簿上甲区順位一番保存登記をしているのは名は同じであるが、全く別の会社(昭和三九年一二月一八日設立、代表者被告土橋、本店神戸市兵庫区湊町一丁目二八〇の二。新会社。)であることが、その申請書等を調査した結果わかつた。保存登記名義人は表題部名義人でなければならない(不動産登記法一〇〇条一号参照)のであるから、右登記及び爾後の登記はすべて無効であるのみならず、実体上の権利関係とも一致していないこと明らかである。

(二) 本件無番地について。

まず、無番地堤敷に囲まれた土地は古くから常三島(阿波藩創立の天正一三年-西歴一五八五年-頃藩主蜂須賀家に功労のあつた人物常三の名をとつたものと称せられ、当時から武家屋敷があつたところであり、周囲の(無番地)堤敷は藩の普請奉行が築造管理していたもので、現に藩は堤敷を補強し、外敵を防ぐ目的で松も植えており、松は最近まで残つていた。従つて、個人使用を認めた形跡は全くない。この場所に武家屋敷と堤敷の存在したことは寛文五年(一六六五年)、享保七年(一七二二年)、文化七年(一八一〇年)にそれぞれ作成された地図〈証拠省略〉にも記載されていることによつて明らかである。

下つて、明治政府が土地の近代的私的所有権を認めるとともに、地租制の改正を実施したさいには、一般に、道路堤塘等人民一般公同の便に関する土地は民有の確証がないか、またはあつても除税地であつた場合はすべて官有地第三種とした。本件無番地はまさに民有の確証がなく、それ故無税無番地であつたものである。現に本件無番地の延長上の堤敷の一部は、かつて、国が徳島市へ(昭和四〇年末)、他の一部は訴外玉置孝雄、同寺沢清なる者へ、それぞれ譲渡したし、一部は国が占有許可処分をしたことがある。以上いずれにしても、本件無番地の私人所有が認められたことはない。

(三) 本件番外地について。

本件番外地は前掲藩政時代の地図にも記入されていないから、これはおそらく明治時代の初期に個人によつて内側の土地(川の洲や蜂須賀下屋敷。現在のグランド。)を新田として開発したさい、その者らが新田を保護するため新らたに築造したものと思われ、その後の維持管理も内側新田所有者が反別に応じて費用を負担して、してきたことが明らかで、新田所有者がすなわち堤敷所有者であり、以後両方の所有権の移転は同時に行われていた。そして、堤敷は番外地扱いの民有無税地であつたわけである(台帳の表にある不動文字「此地価金」「此地租金」の下が空白であるのは、無税地であることを示している)。

しかして、原告国(所轄文部省)は昭和一五年頃別紙目録日のとおり本件番外地を含む周囲の堤敷とその中の土地全部(水路も含む)を各所有者から買取り徳島高等工業学校運動場用地とし、昭和一七年四月三〇日運動場用地部分を北常三島町三丁目四一番の一、二に合筆し、現在に至つたのであり、目録(三)の(一)の堤敷の中にこそ、原告が「番外二」の表示により徳島製函株式会社から、買受けた本件番外地が含まれているのである。

(被告土橋の答弁)

一、原告の主張は全部否認する。本件土地は別紙目録(一)の堤五筆(旧番外五)にほかならず、これは被告土橋の仲介で、被告広瀬が訴外丸岡秀男らから買受け所有権を有するものである。

二、原告は、本件土地は番外五でないと主張するが、さにあらず。現に、徳島市役所、徳島地方法務局の各備付図面をみても、本件土地を「番外五」ないし「四二番の一ないし五」とはつきり記入しており、このような公図上の表示が誤りであるという公的資料は全くない。要するに、原告は昭和一五年の徳島高工グランド買収のさい番外五を買収洩れにしたのである。原告が買つた「番外二」は本件番外地を含むものではなく、その東側に接続するコの字型の堤敷であることは前記公図によつて明らかである。

三、原告の番外地所有権時効取得の主張も否認する。

四、本件土地の前所有者訴外蛭子製材株式会社について、原告主張の新会社の代表者は当初蛭子文三郎であり、同人は旧会社の代表者蛭子庄吉の実弟である。旧会社は庄吉病弱等のため解散され、弟文三郎が清算、再建に当つたが、同人も他の会社経営その他のことに忙殺され、旧会社の有する本件土地のことを忘れていた。ところが、文三郎が昭和三八年頃になり正式に清算をしようとして、まず、旧会社の登記簿の閲覧をしようとしたところ、神戸地方法務局係員は四〇年も前に閉鎖した会社の記録は残つていない、といつた。そこで、同人は、やむなく、親族と相談の上新会社を設立し自ら代表者となり、その後被告土橋に旧会社の財産清算を委任し、あわせて昭和四〇年二月一〇日同被告をも新会社の代表者に就任させ(二〇日登記)、現在に至つている。以上の次第で、本件土地に関する登記が無効であるとか、実体関係にそぐわぬという原告の主張はすべて誤りである。

(被告広瀬の答弁)

一、原告の主張を否認する。

二、本件土地は別紙目録(一)の堤五筆すなわち番外五の土地であつて、これは被告広瀬が昭和四一年三月二二日訴外丸岡秀男らから代金三五〇万円で買受け所有権を取得し、同年四月一日登記を了しており、原告は関係がない。なお、登記簿上はその後所有名義が被告会社に移転されているが、被告広瀬は被告会社に本件土地を売つたことはない。被告広瀬は本件土地代金の金借を訴外須見直太に依頼したさい、その権利証、委任状、印鑑証明書を交付したところ、いつの間にか被告会社名義になつていたに過ぎない。従つて、被告広瀬は被告会社代表者を告訴しているぐらいである。

(被告青黄の答弁)

一、原告の主張を否認する。被告青黄は本件土地所有者被告広瀬の依頼で本件土地造成工事の見積りをするため本件土地に立入つただけである。

(被告会社の答弁)

一、原告の主張を否認する。

二、本件土地は別紙目録(一)の堤五筆にほかならず、これは被告会社が登記簿記載のとおり被告広瀬から譲渡を受け、現にその所有権を有するものである。

第三、証拠〈省略〉

理由

一、まず、〈証拠省略〉並びに弁論の全趣旨を綜合すると、原告が所有権の確認を求める本件土地の形状は原告主張のとおり(別紙図面(一))であり、そのうち、(イ)番外地部分は現況国立徳島大学工学部グランド(徳島市北常三島町三丁目四一番の一学校敷地三七、九二九歩、同番の二同じく一六歩の二筆)の周囲の堤敷のうちほぼ西半分の逆コの字型をなす部分にして実測面積六〇〇坪三六ある(別紙図面No. 68、No. 69付近が大学正門)。なお、右番外地に接続する東半分のコの字型部分が原告(文部省すなわち徳島大学)の所有であることは被告らも争わない。(ロ)次に、無番地部分は右番外地の西側にある堤敷でその実測面積は五六六坪五八あり、位置の上でも沿革的にも(後記)一応番外地と区別できる部分である(以上本件土地面積は都合一、一六六坪九四である)ことが認められ、右認定事実に反する証拠はない。

二、そこで、本件土地を便宜、番外地、無番地に分つて順次その所有権の帰属について検討する。

(一)  (番外地について)

〈証拠省略〉に弁論全趣旨(後記認定の沿革を含む)を綜合すると、次の事実が認められる。すなわち、

(イ)  本件番外地の内側の徳島大学グランドは往時川の洲であつたのを明治初年頃付近住民が水田に造成し(いわゆる新田)、私的所有をなし、その旨土地台帳にも登録していた土地で(なお、そのほぼ中央南北には番外四として登録されている水路もあつた)三〇ないし四〇筆に細分され、各所有者はこれをあるいは自作し、あるいは小作に出していたが、昭和一五年頃には水路西側の一部の田(七筆ぐらい)が訴外林清造、同林駿平(両名の親権者弁護士林為亮)の所有であつたほかは、すべて訴外徳島製函株式会社(代表者片山頼三)の所有に帰していた。ところで、本件番外地を含む右新田の周囲の堤敷は新田開発者が水害を防ぐため自ら協力して築造したもので、その後の維持管理も内部新田の所有者が反別に応じて費用を負担してきた。しかして、かかる堤敷は土地台帳上不正確ではあるが(この点は後述する)一応私有の無税番外地(二番)として登載されていたが(収税源にならないから不正確であつたともいえる)、その性質上これを独立の取引の対象とする者はかつてなく、いわば内部新田の従物と観念されていた。かくして、右堤敷は昭和一五年頃には、すべて前記徳島製函の所有となつていたもので、当時の新田の一部所有者であつた前記林両名もこのことに異議なかつた。

(ロ)  原告(文部省)は昭和一五年頃右新田(含水路)と周囲堤敷全部を当時の国立徳島高等工業学校(徳島大学の前身)の運動場用地として確保することになり、その頃前記会社と林両名から、別紙目録(三)のとおり、その全部を買受けまたは寄付を受けた。これを本件番外地について敷衍すると、本件番外地は右新田周囲の全堤敷の一部として、昭和一五年三月三〇日原告が前記買収計画の一環として訴外会社から契約書に「番外二番地」と表示して〈証拠省略〉これを買受け所有権を取得したものにほかならなかつた。しかして、このような表示によつたのは、堤敷の性質上番地自体を双方とも重要視しなかつたこと、それが誤りであるにせよ公図上本件番外地部分に「番外五」の表示があることに気付かなかつたこと(公図上の右記載が誤りであることは後記のとおり)によるもので、双方に他意はなかつた。従つて、原告はその後も、新田部分を冒頭説示の学校敷地二筆に合筆し、現在に至つたが、堤敷部分については、前記のような土地の沿革、性質に鑑み、その後も特に番地調査、公図改めなどをせず今日に及んだ。

以上の事実が認められ、後記措信し難い証拠のほか、他に右認定事実を左右すべき証拠はない。

右認定事実によれば、原告は昭和一五年三月三〇日本件番外地堤敷をその所有者訴外徳島製函株式会社から有効に買受けてその所有権を取得したことが明らかである。

(二)  (無番地について)

〈証拠省略〉並びに弁論の全趣旨を綜合すると次の事実が認められる。すなわち、

(イ)  本件無番地の沿革はすべて原告主張(原告の請求原因二、(二))のとおりである。すなわち、本件無番地堤敷は前記番外地とは異なり、その形成は遠く、一六、一七世紀に遡り、往時は徳島(蜂須賀)藩の常三島武家屋敷の外延をなしていたもので、藩政時代に作成された古地図にもそれとわかる記載も存し〈証拠省略〉、明治政府による近代的私的所有権制度の確立保証とこれに伴う地租改正が行われたさいにも、民有の確証なき道路堤塘の一として、いわゆる官有地第三種(すなわち国有地)に編入され、未だかつて私人の所有に帰した形跡も、収税の対象となつたこともなく、従つて、いわゆる無税無番地の扱いがなされ、おおむね放置されていた。

(ロ)  現に、本件無番地一帯には古くから松の木が並び植えられ、その樹令も昭和四三年現在で一三〇年にも及ぶものが存し〈証拠省略〉、近隣住民は明治の頃になつてもこれらを「蜂須賀さんの松だから勝手に登るな。」とか「土手は官有地だ。」とか言つていた。また、本件無番地の延長上にある堤敷の一部は最近になつて国が私人に占有許可を与え(おそくとも昭和二八年。〈証拠省略〉)、徳島市、または私人に払下げをなし(昭和四〇年、四一年頃。〈証拠省略〉)、これらの事務処理について何らの紛糾悶着はなかつた。

以上の事実が認められ、後記措信し難い証拠のほか、他に右認定事実を左右すべき証拠はない。

右認定事実によれば、本件無番地堤敷は我が国の近代的所有権制度確立の当初から国有地(官有地)として原告国がこれを所有してきたことが明らかである。

(三)  (本件土地と被告ら主張の別紙目録(一)の堤五筆すなわち番外五番との関係)

ところで、〈証拠省略〉、(イ)徳島市役所備付土地課税台帳付属地図及び徳島地方法務局備付図面について本件土地該当部分をみると、あたかも前者の公図では「番外五」と記入されており、「番外二」と記入されているのは、本件番外地の東側に接続するコの字型部分であるように見受けられ、後者の公図では「四二番の一ないし五」(別紙目録(一)の番地)すなわち番外五の改称後の番地が記入されており、一見前記(一)(二)での判断と著しく異るように思われ、(ロ)他方、右別紙目録(一)の五筆の土地の現行登記簿をみると、まず、五筆分筆前四二番地の時代の昭和四〇年三月三日訴外蛭子製材株式会社名義の保存登記がなされ、ついで同月九日有限会社吉野マンシヨンに売却移転され、六月一一日に現在のように分筆された上、うち四筆は丸岡秀男ほか三名の名を経て、昭和四一年四月一日すべて被告広瀬の名義となり(原因は三月二二日の売買)、次に同日付でさらに被告会社の名義に移つている(原因は同日の売買)ことが認められ、以上の事実を綜合すると、本件土地は一見被告広瀬または被告会社がこれを所有しているかのように見え(登記の権利推定力参照)、被告土橋、同広瀬各本人もそのように供述している。

しかし、本件では、特に以下のような事情が認められるから、右各証拠は前記一見して認められるような事実を支持する証拠としてはたやすくこれを措信することができず、結局前記(一)(二)で説示した認定事実及び判断を左右するに足りない。すなわち、

〈証拠省略〉弁論の全趣旨を綜合すると次の事実が認められる。

(イ)  被告らが本件土地であると主張する別紙目録(一)の堤五筆の公簿上の総面積は僅か二〇〇坪であるのに対し、本件土地の実測面積は一、一六六坪九四にも達する(水面四七〇坪六五を除く)こと冒頭説示のとおりであり、多少の不一致は格別、かかる大差の不一致を説明すべき特段の事情は見出し難い。

(ロ)  かえつて、被告ら主張の別紙目録(一)の土地すなわち番外五に該当する現地は原告主張の位置に存する第二現場(別紙図面(二)参照)の堤敷と考えるのが合理的で、前掲二つの公図上の記入は本件土地がいずれも無税地であること等のため杜撰不正確に取り扱われた結果、誤つてなされたものである。そして、その理由は原告主張(原告の請求原因二、(一)(イ)の主張)のとおりである。すなわち、(イ)徳島市付近一帯の堤敷は、それが私的所有の対象となる場合は、すべて隣接新田の所有者に帰属し、あたかも新田の従物たる扱いを受けていたのが通例で、その例外はないところ、本件第二現場に隣接する旧二〇三番、二〇四番はいずれも大岡川の川淵にある新田で、この二筆と番外五の各所有権移転過程を土地台帳に照らし比較すると(右台帳の記載自体が誤りであると認めるべき事情は認め難い)、別紙目録(二)のとおりであり、よく一致しており、他に(殊に本件番外地内の新田に)かかる類似の移転経過を示すものはなく、(ロ)第二現場の実測面積もほぼ別紙目録(一)の土地の公簿面積に見合い〈証拠省略〉、(ハ)現に、右二〇三、二〇四番地及び番外五に記載ある旧所有者蛭子製材株式会社はかつて右土地で製材工場を設け、製材の出し入れに第二現場を使用していた事実があり、かえつて、本件土地の一部たりとも、右会社が使用占有したことはかつてなかつた。

(ハ)  しかも、被告広瀬または被告会社が別紙目録(一)の堤五筆すなわち第二現場を正当に伝来取得したか否かについてすらすこぶる疑問が存する。すなわち、一般にあらたに登記簿をおこした場合の甲区一番の所有権保存登記名義人は表題部所有名義人すなわち土地台帳上の所有名義人と同一でなければならないこと原告主張のとおりであるにもかかわらず、本件別紙目録(一)の土地の登記簿については一見この間に同一性が認められる(すなわち、いずれも「蛭子製材株式会社」とある)が、その申請書や商号登記簿を調査すると、この双方は全く別の法人格であつてその間に法律上の連続性は認められない。従つて、土地台帳上の旧会社所有の記載を正当とみる限り、登記簿上の保存登記名義人たる新会社は正当な所有者ということができず、それ故、以後の転得名義人たる被告広瀬及び被告会社もこれと同断である(旧会社から新会社に所有権移転があつたとの明確な主張立証もない)。

(二)  しかして、被告広瀬、被告会社が別紙目録(一)の登記簿上所有名義人となつた経緯、ことに真相は次のとおりである。被告土橋(業界新聞業者)は昭和三七、八年頃ある人物(同被告はその名を明かさない)から右目録(一)の土地が未登記であり、その台帳上の所有名義人たる旧蛭子製材株式会社も既に古くから清算段階に入つたままであることを聞き及び関心を抱き、前記公図を調べた結果たまたま公図が前記のとおり一部記載に誤りがあつたことから右の土地の現地は本件土地であると勝手に速断し、これによりひともうけを策した。そこで、まず、旧会社の役員を調査の上代表者蛭子庄吉の弟蛭子文三郎(当時八一才ぐらい。在東京)を探し当て右土地のことを話したところ、同人は当初このような土地の存在自体も知らなかつたが、被告土橋のたくみな話しを聞いて、金になるのであれば他に売つてもよいと答えた。そこで、被告土橋は形式上新会社の設立手続をとり、結局自分が代表者となつた上、右土地の現地は本件土地であると称して知人の丸岡均(登記簿上の有限会社吉野マンシヨンの経営者、分筆後の名義人吉岡秀男らもその一族)に売却したが、丸岡も代金の支払いに困り(被告土橋は、代金は三〇〇万円であつたという)、これを同じく被告土橋の仲介で被告広瀬(被告土橋の幼ななじみ)に転売した(この場合の代金は三五〇万円という)。ところが、被告広瀬も実は被告土橋のもうけ話しに一枚加わつたというのが真相で、代金の持ち合わせもなく、被告会社から金融を受け、譲渡担保として名義を被告会社に移した(被告広瀬はこれを被告会社の無断の所為であるという)。かくして、被告広瀬は本件土地の造成に着手しようとしたので、原告から本訴の提起を受けるに至つた。

以上の事実が認められる。

右認定事実によれば、(イ)被告ら主張の別紙目録(一)の堤五筆の現地は第二現場にほかならず、本件土地とは関係なく、(ロ)関係あるやに見える前記二つの公図は誤つた記入がされたに過ぎないこと、(ハ)また、被告広瀬及び被告会社は実は右目録(一)の堤さえ果してこれを有効に伝来取得したものか否か疑念なしとせず(旧会社から新会社への譲渡経緯が不明)、少くともその登記の記載は前記のとおり無効というほかなく、(二)むしろ、本件紛争の真因を端的に言うと、前記のとおり被告土橋が本件土地の登記簿上、公図上の扱いが不正確であることを奇貨として、これに乗じ、別紙目録(一)の土地の現場が本件土地であると勝手に速断した上ひともうけを画策したことに端を発したと言つても過言ではないことが認められる。

以上いずれにしても被告らの本件土地に関する主張はすべて失当である。

そうすると、爾余の判断をなすまでもなく、原告が本件土地につき所有権を有することは明白である。

三、よつて、原告の請求を認容し、訴訟費用の負担につき民訴法九三条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 畑郁夫 葛原忠知 岩谷憲一)

目録(一)

徳島市北常三島町三丁目四二番の一

一、堤 四畝二八歩(四八九平方米)

同所 四二番の二

一、堤 一四歩(四六平方米)

同所 四二番の三

一、堤 一三歩(四二平方米)

同所 四二番の四

一、堤 一一歩(三六平方米)

同所 四二番の五

一、堤 一四歩(四六平方米)

以上

目録(二)、(三)〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例